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U30支援プログラムに採択されたルサンチカ、幻灯劇場の上演について劇評公募を行いました。

上演されたその作品に対してどういった眼差しが向けられたのか、掲載いたします。 

 

ルサンチカ『SO LONG GOODBYE』

市川剛史

川﨑真

中筋捺喜

永田悠

藤城孝輔

幻灯劇場 『0番地』

市川剛史

中筋捺喜

永田悠

藤城孝輔

(敬称略・五十音順)

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ルサンチカ『SO LONG GOODBYE』

上演日時:2020年 2月9日(日)16:30

会場:京都府立文化芸術会館 ホール

市川剛史 氏(ライター)

 

『SO LONG GOODBYE』を観終わったあと、私はドラマトゥルク担当の田中愛美さんがnoteで連載していた記事を読んだ。何故かと言えば、今回上演された作品を観ても、私には何がなんだかよくわからなかったからである。もちろん、解釈の余地はあったし、それを楽しむことはできただろう。なんせ、真空パックされたバナナが吊るされていくわけだから、それだけでも様々なことが想像できる。しかし、そういったこととは別に、魅力のようなものがいまいち伝わってこない。そこで、何か取っ掛かりはないかと読み始めたのが田中さんのnoteだった。

 

どうして上演されたものを観てもピンとこなかったのか。おそらく、情報量が少なすぎたのだと思う。インタビューによって集められた生の声は、話者の顔が見えないモノローグになっていた。どういう生活の中から生まれた言葉だったのか。言葉の主は、どういう時間を過ごしてきたのか。肯定的な声色で語ったのか。それとも暗い響きを伴っていたのか。ほとんどすべて情報が削ぎ落とされ、抜き出されたテキストだけがそこにあった。それだけではない。何故、こういう形になったのか。どういう思いがあるのか。制作サイドの考えも、私にはまるで伝わってこない。それらを補完するピースとして、田中さんのnoteはあったように思う。

 

noteをすべて読み終わってから、改めて本作に抱いた感想は「もったいない」だった。『SO LONG GOODBYE』という作品は、舞台上で上演された部分だけでなく、そこに行き着くまでのすべてが作品なのではないか。そう感じた。構成・演出を担当する河井朗さんが何を考えていたのか。俳優の渡辺綾子さんが本番を迎えるまでどう過ごしていたのか。それらを田中さんがどう見ていたのか。ピースが加わったことで、私の中で無機質に感じられていた作品に生々しさが生じていく。

 

noteを読んでいると、作品ができあがるまでに三人がたどった思考過程や稽古中に過ごしていた年末年始の季節感までもが伝わってくる。北海道へ出稼ぎに行く河井さん。視力の低下を不安がる渡辺さん。真空パック内で発酵するバナナ。それらを独自の見解を添えて綴る田中さん。どれも面白い。作品の向こう側にようやく人間が見えてきた。それなのに、そういった部分が上演作品からは綺麗に取り去られている。上演されたものしか観ていない観客には、この作品の魅力が半分も伝わっていないのではないだろうか。だから、私も最初は戸惑ったし、もったいないと思ったのだ。

 

U30支援プログラムは来年も行われるという。それならば、是非とも来年は魅力がより多く伝わる形に仕上げられたものを観てみたい。ルサンチカで扱われているテーマや試みは興味深いものだと思う。noteを見る限り、関わっている人たちからも独特な世界観を感じる。あとはそれらをどう作品に落とし込むか、ということなのだろう。一年という期間は、演劇作品を作る上で決して十分な時間ではないのかもしれない。それでも、さらなる試行錯誤を経たものが観られるのだろうと期待が高まる。来年の上演が楽しみだ。

 

 

 

川﨑真 氏(幼児教育研究家)

ルサンチカ「SO LONG GOODBYE」ーーー本質としての仕事の側面を探る。ーーー

今回、上演されたルサンチカの「SO LONG GOODBYE」は仕事をテーマとしている。演出の河井朗氏が中心になり、様々な年代、職種のインタビューを取り、それを元に製作された。一見すると簡単に思えるテーマほど難しいものである。身近なテーマは見る側が普段から実生活で接しているため、それに伴う先入観が構築されている可能性が極めて高いからである。今回の舞台を観劇するにあたり、この作品が表現したいものは単純なものではなく、もっと他の深い部分にあるはずであるという点に着目して観るように心掛けた。

 

一言で仕事と言っても世の中には様々な仕事の形態がある。ところがその本質も様々なのである。一人で大勢の人の前に立つ仕事でも司会、講演、演説、大学講義などがあり、一見すると同じ仕事に見える。しかし、これらの中で私が経験した最も難しいものは大学講義である。大学講義は、それを聞く学生から、この人の話は自分にどれほど役立つのかといった評価や役立つ講義をして欲しいといった期待感などの感情がひしひしと伝わってくるからである。ある意味生き物であるとも表現する事ができるであろう。もちろん期待にそぐわない講義をすると、その場で結果が出てしまう恐ろしいものである。つまり、この恐さがこの仕事をする上での本質の一つになる。

 

今回の一人の女優が演じる舞台を観てまずこれらの事を思い出した。なぜなら、舞台も同じ生き物であるからである。二度と同じものは作る事はできない。そこが舞台の魅力の一つであり業(ごう)であるとも表現する事ができる。又どこまでを舞台として見るのか、演者や舞台演出だけを見るのであればビデオとの相違はいかなる部分であるのか。観客の息吹により演者の感情変化やミスも又舞台の一部ではないか。など様々な視点からこの舞台を観てとる事ができる。

 

今回の舞台は、派手な舞台演出や音楽が全く無い事でより一層演者に対する観客の視線やストーリーに対する期待が寄せられる。それらの演出効果に依存できないからだ。加えて一人の女優が何人もの人物を語りだけで演じるから尚更である。主演女優、渡辺綾子の力量が試される舞台である。持論ではあるが、前述したように身近なテーマを題材にするには演者の様々な人生経験も大きく反映される事も付け加えておく。

 

これらの難しさを払拭させる狙いがあったのかは定かではないが、導入部分が興味深い。司会者が開演に先立って舞台上でインフォメーションをした直後、女優が登場し話し始めるのである。接続はとてもスムーズだ。話は自己紹介であるかの様に始まる。定石では、その後からが本編の開始だが、果たしてその通りなのか。この時の「休職中」という言葉には言葉以外にどんな意味があるのだろうか。最初の司会者が登場した時からが舞台の開始なのかは興味深い点である。

 

最初の子どもとの会話に鉄棒の件(くだり)がある。この時の子どものとった行動は情報共有であり、他者との共存を前提とした行動である。この事が後の表現に関連性を持つ事はこの時点では知る由もなかった。本編に入り女優は仕事の目的に伴う生き方を主題として多くの働く人を演じ始める。生活のために行う仕事、他者の目があるために行う仕事、職場に迷惑をかけられないといった責任感から行う仕事。目的一つとっても様々な理由がある。しかし、共通して言えるのは、仕事は手段であって目的ではないという事である。

 

昔、ホームレスとは生き方の一つであるという意見を耳にした事があるが、この舞台でも仕事をしない恐怖とホームレスという生き方の対比が取り上げられている。ここにも前述した通り、他者との共存が存在感を示す。人には所属の原理というものがあり、どこかに所属することで自分の存在を自他共に認識する傾向がある。逆に言えば所属がない事に絶対的な不安を感じるものである。多くの人が人生の大半を所属させる場所は職場である。仕事にはこういった心理的側面も存在するのである。これらも上手く体現されていた。

 

劇中の唯一と言って良い舞台演出に真空パックされた数多くのバナナが象徴的に登場する。これは何を意味するのだろう。このバナナは同じ場所にとどまるのではなく天に上がる。この演出の意味は私には、仕事上における人との関わり、製品、賃金などの数ある生産性の部分を取り除けという意味に見えた。バナナが天に向かう演出は生産性を取り除いた仕事の本質の象徴のようでありその本質の追求こそがこの演劇の隠れたテーマに思えたが、観劇された方がどう感じられたかはそれぞれの考えにお任せしよう。

 

最後になるが、今回の舞台も仕事なのである。演出の河井朗氏は、この舞台を通じて演劇の仕事の本質を追求したかったのではないであろうか。それを表現する女優、渡辺綾子の今までの人生経験に基づく自然な演技は見事であった。自分の仕事の本質とは何かを改めて自問自答しながら観劇すると又違ったものが見えてくるのかも知れない。

 

中筋捺喜 氏(うさぎの喘ギ 俳優)

「死とバナナ―ルサンチカ「SO LONG GOODBYE」―」

<死と仕事とバナナ>

上演後の意見交換会の中でも言及されていたが、英語のfruitには、果物という意味のほかに収穫、成果などの意味がある。本作は仕事に関するインタビューで構成されたテキストが、fruitであるバナナを真空パックしながら語られる。主題となる仕事と安直に結びつけるならば、fruitは仕事の成果、結果という機能を果たす。では、その仕事の成果・結果であるfruitがバナナであったことには何の意味があるのか。

上演後、観客からの質問や意見交換が行われた。観客の主眼は、舞台上に登場する唯一(と言っていいだろう)の小道具であるバナナにある。バナナがなんだったのかということで様々な意見が出ていて、その状況がとても面白かった。色んな人が色んな解釈をしていて、それがポンポンと出てくる状況、なかなか貴重なんじゃないだろうか、と思った。と、思ったので、わたしもまずはバナナについて考えてみようと思う。

わたしが観劇しながら吊り下げられていくバナナを見て思ったのは、こんな神話あったよな、ということだ。神様が天上からバナナを降ろしてくる、みたいな……。調べてみたら本当にあって安心した。「バナナ型神話」というもので、東南アジアやニューギニアを中心に各地に見られる神話らしい。概要を言うと、神様が石とバナナを降ろしてきて、人間は食べられるバナナを選ぶのだが、それに対して神様は「バナナを選んだからお前たち人間の命はバナナのようになるだろう。バナナは子ができると親が枯れるように、お前たちは死に、子がその跡を継ぐ。石を選んでいたらお前たちの命は石のように永遠だったのに……」みたいな感じの話だ。何とも理不尽な話である。石とバナナだったら、石を選ぶだろう。ここでは石=永遠の命、バナナ=死(短命)と対応しているのだが、バナナが死(短命)の象徴となっているのには2つ理由がある。1つは先述の通りのバナナの植物的な性質から、もう1つはバナナの実がやわらかく、もろく腐りやすいことから死が連想されるという理由である。上演中、俳優である渡辺綾子がテキストを語りながら、バナナを真空パックしていき、それをぶら下げていく。この時点で、バナナはその「もろく腐りやすい」という性質をテクノロジーによって乗り越えたといえるだろう。

ところで本作「SO LONG GOODBYE」には「死」という言葉が何度か用いられている。仕事と死との間に、いったいどのような関係があるのだろうか。このことを考えるためにはもう一つの項である生活が必要な要素となってくる。

 

<生活と真空バナナ>

ルサンチカのHP中の本作のページに、「私たちは何のために仕事(生活)をしていると言えるのだろうか。」という一文がある。仕事(生活)、このカッコ書きには何の意味があるのだろうか。作中では、生活のために仕事をしている、あるいは、仕事をすることで精神の安定を図っている、そんな人たちの言葉が語られる。前者と後者の違いは、仕事の目的だ。前者は現金を手にするため、後者はより抽象的な他人による承認や自己実現のためである。前者と後者の異なった目的で仕事をしている人たちの言葉が織物のように語られ、さらに人々が自身の生活を語る言葉と混ざり合う。生活の中に、仕事が巧みに組み込まれていく。では、死はどうだろうか。死は、生活の延長線上にあるのかもしれない。ドラマトゥルクの田中の言葉を借りるのであれば、「綿綿と生活が続いてゆくこと」(当日パンフレットより)の先には、死が待ち受けている。しかし当然ながら、死ぬために生活をしているわけではないし、死ぬために仕事をしているわけでもない。生活の延長線上に死があるだけで、それは結果であって目的ではない。

バナナ型神話で神は、石とバナナを人間に選ばせた。短絡的に、自分の生命のためのバナナを選んだ人間を戒めるように、神は人間に短い命を与えた。人間は短い命の中で子を産み、育てなければならなくなった。その結果生まれたのが、仕事(例えば農作業など)ではないかと考える。つまりバナナ型神話における死と仕事の関係は、死を回避するための仕事ではなく、死という結果を甘んじて受け、自分が死んだあとの子どものことを考えての仕事、つまり死のための仕事と言えるだろう。

しかし、本作「SO LONG GOODBYE」ではそのような仕事のありかたを否定する。上演の中で用いられるバナナは家庭用真空パック器によって真空状態になり、腐ることのないバナナであるからだ。つまりこの上演の中でバナナは神話の中にある死や短命のメタファーではなく、そのような死と仕事を接続する在り方を切断するための機能を果たしているといえる。

「私たちは何のために仕事(生活)をしていると言えるのだろうか。」という疑問に立ち返る。わたしはまだ学生で、「仕事」と言える仕事はしていないのだが、それでも「生活のためでは」と答えが導き出された。しかし実際はどうだろう。生きるための仕事で、命を落とす人もいる。上演中、死という単語が登場するたびにドキリとするのは、きっと仕事で命を落とす人がいるということを知っているからだ。そんな仕事の在り方を否定し、仕事と死を切断するための、真空パックされたバナナだったのではないだろうか。ラストシーンで、今まで渡辺が吊ってきたバナナが全て降りてくる。そこには選択の余地がなく、見渡す限り、吊られた真空バナナだ。「SO LONG GOODBYE」は、何に対しての別れであったのか。それはきっと、死ぬための仕事を生み出した神や、死と接続された仕事への別れであったのではないだろうか。どうせ、わたしたちはゆっくり死ぬ。だけど、死ぬために仕事をするわけでも、死ぬために生活をしているわけでもない。そのことを、無数の真空バナナによって観客に突き付ける、とても「明るい」作品であった。

 

引用:ルサンチカHP(https://www.ressenchka.com/)

(最終閲覧日:2020年2月21日)

 

 

永田悠 氏(会社員)

 

誰かではないあなたそのもの――「SO LONG GOODBYE」を観て 

普段何気なく発している言葉や受けとっている光景や人の動き。これらがどれだけの意味を含みうるのか。そんなことを自然と考えてしまう演劇だった。 

前作「PIPE DREAM」の「死」に続き今作のテーマは「仕事(生活)」。仕事とは何か。生活の糧となること、誰かのためになること、生きがい。捉え方はそれこそ人の数だけある。最低限の共通項は「体を動かす」という作業と「対価」だろう。大事なのは共通項の先で、仕事(生活)に付着した、それぞれの人が設定する目的や意義。これを内側からの仕事の定義とするなら、外からの定義としては警察官、自営業、介護職員などの肩書としての職業が分かりやすい。 

本作では、この肩書としての職業が主に語られているように見える。真空パックされたバナナは「人そのもの」にも見えるが、それにしては個性がないように感じる。台詞に含まれている何人かの人物が個人的な仕事論を語っているのに、どこか特徴がない平板な声に聞こえるのと同じように。外から見ると、肩書としての職業は吊るされて並んだ真空パックのバナナのように見分けがつかない。この視点からの真空パックは、職業という言葉に袋詰めされた個人の閉塞感が含まれているように見える。 

「Fruit」という単語には収穫という意味があると劇後の挨拶で聞いた。ここから想起されるのは仕事の実りである「成果」。この結果を人が仕事の意義として求めようが求めまいが、社会は成果の積み重ねで成り立っている。この筋から考えると、仕事は社会的持ち場という意味になりそうだ。確かに人間関係でも肩書を見られるし、肩書があることで公的にも私的にも生きやすくはなる。ただ、この収穫にはどことなく「死」の匂いがある。鮮度が落ちたフルーツは捨てられてしまう。台詞の中にも「ホームレスは生きることを諦めた人」「姥捨て山」のように、社会的持ち場を確保できない人は蚊帳の外という仕事観が見え隠れしている。国を大きな会社に例えて考えることからも、これが仕事の最も広い意味かもしれない。 

ところで、テキストを読み込んでいると出演者である渡辺綾子さんが自分の言葉を語っている割合がとても多い。何故だろう。観劇中には気づかなかったが、職業の中には必然的に個人が含まれていて、その人は職業とは関係なく自分の考えと言葉をもって生きているということを示している。だとすれば、冒頭で演出とドラマトゥルクの名前が語られるのも同じだ。人には肩書という名札とは別に個人的な名前があるということ。当たり前のことだが、仕事という観念を考えるときにこれを意識し続けることは難しい。なぜなら仕事には代替性という無個性な特徴があり、だいたいの仕事に求められるのは個性ではなくその職業の誰が行っても同じことができるという水準だから。 

このように個人であることが開かれているのであれば、ここでも僕が個人的に感じたことを書かなければ失礼だろう。前作も観ているためどうしても繋がりを考えてしまう。「PIPE DERAM」では河井朗さん1人が演じていて、1人ということは同じ。しかし、吊られているのは河井さん自身だった。この違いは「死」は個人的なものだけど、「仕事」はそうではないところにあるのかなと感じる。 

横並びに吊られていくバナナは、ここでは独りではないというメッセージも含まれていそうだ。 

音について。前作も今作もとても静かで音の情報はほとんどない。前作は時計を思わせる口で鳴らすコチコチという音が死への時間制限を想わせたけど、今作では真空パック機の音が響く。音が変われば真空パックの出来上がりは間近ということが分かって、だんだんと成果が積み重なる。どちらも時間の経過を示しているけれど、意味合いは随分と違う。 

動き。前作の動きはほとんどなかったけれど、今作の渡辺さんはせっせと真空パック機を使い、台車に載せてバナナを吊る仕事をしている。仕事という作業を表現しているのは確かだけれど、この真空パックされたバナナが個人を包括した仕事だとすればもう1つ意味があるのでないか。注意深くひとつひとつ、ひとりひとりを実らせるのは神様のような超越的な存在の仕事。この存在にとっては誰もが等しい。ここから、なんとも言えない自分も肯定されている感じを受けた。 

タイトル。「PIPE DREAM」は、人生が運命という一方通行の管を通り過ぎるだけのものでしかないならば、生は管の中で見る夢でしかないという意味に読み取れた。「SO LONG GOODBYE」はさよならの挨拶が二重になっていて、何とさよならをするのかが分からなかった。仕事を離れたら個人は純粋な個人に戻るから、次の個人の関係になれるまでさようなら、またねということなのか。あ まりしっくりこないから思い出すたびに考えようと思う。 

「『そうすることが決まっているように』働いて生活しているなって思うんです あー ゆっくり死んでいるなぁー って思うわけなのね」という途中の台詞が最後に繋がる。「私は嫌なんだよね どうせ ゆっくり死ぬよ でも ゆっくり死にたくない から なんでも話してあげるよ」。意味はよくわからないけど、とても好きなフレーズ。話すという行為は空気を発することで真空パックと連想すると鮮度が落ちるという悲観的な考えも浮かんだけれど、たぶんそうではなくて。個人を語ることは仕事という個人が抽象化された括りから純粋な個人として抜け出すこと。職業の中に個人が居る、ではなく、個人を先に捉える仕事観。 

劇中は没頭させられて、劇の後は自分という現実を考えさせられる。どちらもとても楽しい時間だった。これが次回の「争い」にどのように繋がっていくのか。時間が許す限り観に行きたいと思う。それでは次回作を楽しみにしています。さよなら、またね。 

 

藤城孝輔 氏(岡山理科大学教育講師)

ダイアローグとモノローグ
――『SO LONG GOODBYE』(河井朗構成・演出、京都府立文化芸術会館、2020年2月9日) 

 

謎めいたタイトルが戸惑いを残す。劇中に「SO LONG GOODBYE」という言葉への直接的な言及はない。そもそも、どう日本語に訳すべきかもよくわからない。“So long” も “Goodbye” も英語の別れのあいさつであり、二種類の「さようなら」を並べたものと解釈できる。それともレイモンド・チャンドラーのノワール小説『長いお別れ』(The Long Goodbye、1953年)を踏まえて「こんなにも長い別れ」と訳すべきだろうか? 学校文法では「so+形容詞または副詞」「such+名詞句」の区別を習うが、「(so+形容詞)+単数名詞」の用法も間違いではない。

 

「さようなら さようなら」と「こんなにも長い別れ」――両方とも別離のシーンを想起させる言葉だが、どちらに訳すかで印象は大きく変わる。前者はダイアローグを前提としている。一方の人物が “So long” と言い、もう一人が “Goodbye” と答える。もしくは別れようとする人物が、話を聞いていない相手に向かって “So long. Goodbye” と畳みかける。いずれにせよ対話の相手が存在してはじめて発せられる言葉だ。他方、後者は「こんなにも長い別れなので……である/する」というモノローグの言葉を導き出す。いわゆるso that構文である。明言されることのないthat以下の部分は、ノワール小説において特徴的な一人称の内的独白にも通じる部分がある。

 

ダイアローグとモノローグの区別は、渡辺綾子による一人芝居で構成される本作の核をなす。冒頭、客席の照明がまだ灯っている中、上手袖から渡辺が出てきて客席に向かって立つ。あいさつの後、彼女は「わたしの名前は渡辺綾子です。むかし滋賀県で生まれて いま京都府内に住んでいます」と自分の日常について観客に語りだす。休職中の日曜日に公園で出会った少女の話をするあいだに少しずつ客席が暗くなっていき、完全にステージのみの照明になったところで渡辺は舞台中央に移動して別の人物の物語を語りはじめる。オープニングでは観客を相手に直接自分の話をする対話の言葉で語っていたが、ここではじめて独白の言葉に切り替わるのだ。

 

配布資料によれば、渡辺が劇中で語る言葉は21人に対して行った仕事についてのインタビューに基づいているという。個々のインタビューからの引用は必ずしも明確に区切られていないため、21人全員の言葉が用いられたかどうかは判然としない。関西弁が混じるときもあればそうでないときもある。自営業、警察官、看護職といった具合に、語られる仕事の内容も目まぐるしく移ろっていく。原案として挙げられているスタッズ・ターケルのノンフィクション『仕事!』(1974年、邦訳1983年)ではインタビュイー一人一人の氏名が示され、百科事典と同様に大まかな職種ごとに分類されている。本作では対照的に匿名のモノローグの集積が通過していくメディウム(媒体、霊媒)としての渡辺の身体が強調されているように見えた。

 

渡辺がステージ上で演じてみせる「仕事」は、バナナを真空パックにして吊るす作業である。彼女が舞台上手で使用する真空包装機の機械音が劇場内に響き、渡辺は舞台上部から吊り下がったワイヤーにバナナのパックを吊るしていく。バナナを吊るしたワイヤーがするすると上がって天井に消えていくと、今度は別のワイヤーが下りてくる。目的も終わりも見えない、単調で意味のない作業に他ならない。ターケルの著書の序文では仕事は「精神と肉体の両方に対する暴力」と表現されるが、このような無意味な仕事もまた致死的な暴力の一形態であろう。

 

「なんですかね なんか まるで 『そうすることが決まっているかのように』 働いて 生活してるなって思うんです あー ゆっくり死んでいるなー って思うわけなのね」

 

劇中、あるインタビュイーの独白として渡辺はそう語る。密封したバナナを吊るす作業を何の不満も漏らさずに延々と続ける彼女も当然のように自分の「仕事」を受け入れ、ゆっくりと死に向かっていると言えるだろう。タイトルが「こんなにも長い別れ」を意味するとすれば、それは別れ=死にいたるまでの長い時間を指すものである。

 

構成は十分に練られており、コンセプトも興味を引く。だが、本作のねらいや実験性がKyoto演劇フェスティバルの観客全員に受け入れられたとは言いがたい。渡辺のお辞儀で唐突に劇が終わって観客席が明るくなると、「よくわからない」「難しい」とささやき合う複数の観客の声が聞こえた。私の横に座っていた観客は公演後のQ&Aの際に「台詞の語尾に工夫がなくて、おそろしく単調になってしまっていた」という手厳しい指摘を浴びせかけた。肯定的な感想を述べた観客も、言葉を選んで評価できる部分を慎重にすくい上げている印象を受けた。京都府立文化芸術会館は400席規模でありながらステージと観客席の距離が近いため、観客のこのような反応は演者や演出家にもひしひしと伝わっていたはずである。実際、渡辺綾子は「ステージに立っていると、どんな時にお客さんが興味を持って聞いてくれているか、いつ退屈しているかがよく伝わってきました」と苦笑い交じりに語った。

 

バナナがモティーフなだけにスベっていた、などとつまらない冗談を言うつもりはない。ただ、本作では観客とのダイアローグが不十分だったのではないかと私は思う。ルサンチカにとって本作はKyoto演劇フェスティバルU30支援プログラムの2年目にあたる上演作品である。会場は昨年(2019年)と同じであり、Kyoto演劇フェスティバルに集う観客の雰囲気も把握していたはずだ。支援プログラムは3年がかりの取り組みであるため、いわば3年間にわたって観客と対話を重ねることができる絶好の機会であると言える。だからこそ作り手側が伝えたい表現をただ一方的に押しつけるのではなく、観客とのあいだに築いた関係性をもっと活かした作品作りをしてほしい。来年の大きな成長に期待している。

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幻灯劇場 『0番地』

上演日時:2020年 2月8日(土)17:20〜 上演

会場:京都府立文化芸術会館 ホール

 

市川剛史 氏(ライター)

この作品を観て素直に思ったことは、「理屈抜きで面白い」ということだった。わざわざ劇評にかこつけて、私の拙い理屈など並べても仕方ないという気持ちである。とはいえ、せっかくいただいた機会なので、私が頭の中で考えてみたことをつらつら書いてみようと思う。

 

この作品は、冒頭とラストのシーンを除けば、「ファッションショーのバックヤード」「密室」「おばあちゃんの部屋」「コンビニ」という4つの場所でそれぞれストーリーが展開されていく。基本的にはコメディータッチで話が進行していき、合間に歌や踊りが入る。「差別」や「分断」というものをテーマにしてはいるが、説教臭さもなければ、道徳をかざして殴りかかってくるようなこともない。観客は肩の力を抜いて、芝居をただ楽しんでいればよいのである。一つ一つの言葉のチョイスも、俳優の演技も、歌や踊りもそれに足るだけのものだった。

 

しかし、だからと言って、この作品は決して愉快なだけのエンターテイメントではない。扱っているテーマにしっかりと向き合っているからこそ、単なる娯楽の範疇に留まらないし、だからこそ、演劇として意味がある作品なのだと思う。

 

「誰かが悪者で、そいつを叩けばいい」ということではなく、対応を間違えたり、勘違いしたり、すれ違ったり……その結果、誰かが深く傷ついてしまう。そういう人間の営みをしっかり描いている。例えば、真田と和也のエピソードなどは、まさにそれだ。真田側から見れば、心温まる良い話だが、和也の側から見れば人生を狂わせたトラウマ以外の何者でもない。本作には、ある出来事を別々の視点から見るような話がいくつも盛り込まれている。

 

また、「問題は簡単には解決しない」というリアリティもあった。ラストシーンのあともバンチであるトクはきっとコンビニで働いているだろう。安田と寧々が結婚したとしても、寧々は両親と縁を切ることになるかもしれない。個々の関係性の中では、問題がある程度解決したとしても、相変わらず問題の起こる構造自体はそのままなのだ。

 

劇中でそのことを殊更に強調するわけではない。物語のそこかしこに、ただ在るだけだ。だが、それによって登場人物たちの人生は捻じ曲げられているし、彼らの行動は左右されていく。三牧がトクから逃げてしまったように。あるいは、富田が日本人に対してちょっとした敵意を向けるように。

 

そういうものを内包している作品であるにも関わらず、やはり私は楽しく観ていることができた。所々に思考する種は散りばめられているが、それ以上に圧倒的に心地良い時間だったからである。それは良いことだと思っている。問題提起のために、観客に不快な時間を与えるような芝居よりも、心地良さと共に思考の種を飲み込ませてほしい。そういった意味でも私にとっては最良の観劇体験だった。

 

中筋捺喜 氏(うさぎの喘ギ 俳優)

「音楽劇、その時間性と総合性―幻灯劇場『0番地』―」

 

よく、演劇は総合芸術だと言われることがあるが、いったい何が総合されているという意味で用いられているのか。わたしは、演劇が総合しているものは、「空間芸術」「時間芸術」「言語芸術」の3つの形の芸術だと考えている。本作で重視されていたのは、その時間芸術の側面だったように思う。音楽やダンスという時間芸術を取り入れ、観客に言語以外の情報を与えることで、観客の注意を常に引き留めるための飽きさせない工夫であるとともに、この「取り入れ」が物語の根幹とも関わっている。この点について、音楽の持つ時間性(刹那性と言い換えてもいい)と演劇の持つ総合性という観点で述べていきたい。

本題に入る前に、音とは何かについて考えたい。常識的に言えば音は波である、ということができるだろうが、最近、「音は出来事である」という論を読んだ。かいつまんで説明すると、音には始まりと終わりがあり、時間を通じて展開するものであるという点から、出来事という存在論的カテゴリーに属していると言われることが多いという。では、音楽とは何か。音が出来事であるという考え方に則ると、音楽は出来事の連続である。つまり出来事を人間の意図によって組織したものが、音楽と言えるだろう。

 

<時間性 リプレイの不可能なこと>

上演時間は前説も含めて70分から80分ほどであったと記憶している。その中で楽曲は5曲ほどあったはずだ。

本作での音楽の位置づけを考えると、場面転換の時のブリッジとしての側面があることがわかる。当然、音楽そのものには多様な意味合いがあるが、ここで特筆したい点はその音楽がすぐに次のシーンが始まることで霧散してしまうことだ。観客はその音楽の余韻を引きずることを許されないままに物語は進む。音楽によって与えられた情報をすぐさま処理して、その次の場面へと移行しなければならない。観劇している間、わたしが感じていたのは「戻れない」という感覚だ。さっきの曲よかったな、もう一回聞きたいな、どこがよかったかな、思い出そう……ということを許さずに次のシーンへ。それと同時に、シーンそのものも時間性を意識させる演出になっているように思われる。コンビニ、ファッションショー、引越し、監禁、そしてあの時の2人。主にこの5つの場面を行ったり来たりして物語は進む。それぞれのシーン、そのどれもが若干早回しになっている。もちろん必要な間(加えて確信犯的に必要でない間)はあったが、誰かの言葉に被さるように言葉をかけたり、あるいは聞いていなかったり。この上演は、観客に過去の時間に立ち戻ることを許さない。この仕掛けは、主要な登場人物である三牧の心情と重なる。彼はかつて恋人であったトク佑香の瞳を見て逃げ出した。ただ瞳の色が少し違うというだけで、彼女を拒絶してしまったという過去に後戻りすることはできない。時間はどんどん進むし、自分の人生にも無数の小さな出来事が積み重なる。音楽の持つ時間芸術的側面が、登場人物の心情とリンクして演劇という形態に総合されており、その演劇もこの一度しか上演されないことで二重に時間性が強調されることになる。

 

<総合性 組み込まれていくこと>

前項では音楽の時間性について述べたが、本項では総合性について考えていきたい。本作は音楽が演劇という総合芸術の中に含まれている「音楽劇」という体裁をとっているが、その名の通り本質は「演劇」なのである。つまり、この上演においての音楽は「演劇」という大きな枠組みの中に回収されていく。この演劇のもつ総合性が、本作においては重要な意味を持つ。

作品中に登場した音楽は、それぞれが誰かの感情の代弁であったのだろう。その誰かは、太古の昔の「バンチ」たちかもしれないし、トク佑香かもしれない。音楽を聴いて、その感情の主体は誰かを想像する。歌う俳優と、感情の主体が一致しようがしまいが、「これはあの人の感情なのだろう」と想像する。その音楽に内包される主体を想像して、どんどん積み重なる出来事にその想像を重ねることで、観客は物語の構造と人物の感情を同時に理解してゆく。当然、テキスト上から読み取れる感情もあるのだが、本作のテキストは物語を、音楽は感情を担っている側面が強かった。架空の日本を表現するにあたって、提示しなければならない情報の多さに比例してテキストの物語的側面が強まるのは当然のことと考えられる。

そしてその音楽は演劇に回収される。出来事の積み重ね(=音楽)が、大きな枠組み(=演劇)に回収され、取り込まれていく。この構造こそが、本作の主題ともいえる「バンチ」とその終焉を現わしている。小さな民族「バンチ」は、より大きな枠組みとしての日本へ取り込まれて消えていく。それぞれが抱いていた感情は、全体の構造に取り込まれていき、いつの間にか無くなってしまう。本作は小さな民族「バンチ」と日本という寓話によって、少しずつ足音の近づく全体主義への批評となっているとは考えられないだろうか。

ラストシーンで佑香はランウェイと思しき空間をただ歩く。緞帳が降りていき、聞こえていた音楽、全てが幕の中に回収されていく。降りた緞帳を見て、美しい終わりだが、本当にこれでよかったのだろうか、という少しのわだかまりが残った。それは音楽が、演劇に回収されてしまったということに対する違和感だ。見事に調和していたはずなのに、最後はやっぱり演劇なのだ。「音楽劇」の終焉、そこにあるのは緞帳で、音楽ではない。このことが奇しくも作品の主題と重なり合って、民族の終焉を表現し、わたしたちは今後どんな演劇を作るべきなのだろうか、そんな演劇そのものへの疑問をも投げかける。

 

参考文献:源河亨『悲しい曲の何が悲しいのか 音楽美学と心の哲学』(慶応義塾大学出版・2019)

 

永田悠 氏(会社員)

それぞれの祈り――「0番地」を観て

 

一晩限りの音楽劇。そこに居合わせることができて「0 番地」の構成要素になれたことはとても素晴らしいことだった。笑ったし、涙が出そうになったし、最後は美しさに見惚れた。演劇はいつも非現実に入り込ませてくれる。舞台となる「いつかの日本」は八つの島に分かれており、一番小さな島に住んでいた民族がバンチと呼ばれた。特徴は瞳の色で、白みがかっていると語られる。そのため、バンチの末裔はカラーコンタクトでアイデンティティを隠して日本で生活をしている。タイトルの「0 番地」はバンチが最初に住んでいた島を示しているのだろうか。 

冒頭の挨拶。緊張を和らげるための深呼吸という言葉から唐突に物語が始まる。カラーコンタクトをなくしたバンチの女の子「トク佑香」と日本人の男の子「三 牧拓篤」の回想シーン。自分の日常とは別の存在だと思っていたバンチ。恋人がその末裔だったことを知り、異質な存在に緊張した男の子は深呼吸をする。影絵 のような手の動きがとても綺麗な踊りが続く。 

自分の居場所はここではない。コンビニ、ファッションショー、監禁部屋、遺品整理、4つのシーンは冒頭のシーンの将来に繋がっていくが、どのシーンでも登場人物は居場所を求めている。民族という社会的居場所、トラウマを作った犯人への復讐という存在意義、祖母の心を占める場所。居場所と言っても物理的、精神的な意味が絡みあっている。存在を許容されるという意味や自分の生きる場を確保するという意志も含まれるだろう。 

例えば、遺品整理のシーン。幸村幸平はボケてしまった祖母が世話をしてきた自分を母親と間違えことが許せず世話を放棄してしまう。死に目に会えないまま祖母は亡くなり遺品整理をしていると、祖母が若い頃の姿で幽霊となって現れる。好きだった祖母の心に残れなかったのではないかというやるせなさと、世話を放棄した罪悪感の葛藤。妄想かもしれないと思いつつ祖母の幽霊に居場所を求める。個人的にこのシーンがとても好きだ。トイレットペーパーのペーパーフォルダーを人が演じていたり、「日本人」である幸平の友人、真田祐樹が登場人物の中で最も倫理観がおかしいように見えたりするところ。真田祐樹は監禁部屋のシーンのトラウマを作った真犯人でもある。 

舞台は「日本」であり、使用されているのも日本語なため並行世界であることは気付きにくい。ただ、コンビニのシーンで、無口な店員が「自分はコウベとオオサカのハーフで、日本人とは結婚するなと言われている。」との告白をしたとき、笑いつつ違和感を覚えた。この演劇の世界での「日本」とは現実の日本のどの程度の範囲なのだろうと。公式サイトを拝見すると、「KOBE」の父と「OSAKA」の母とのハーフとのこと。八つの島があるということは島ごとに民族が違っていて、この世界での日本は現実で言うところの京都周辺のみなのかもしれない。監禁部屋のシーンで、日本の下京区というフレーズが出てきたことからの推測に過ぎないが。 

「0番地」は美しい音楽、踊りとテンポよく進む台詞がとても楽しい。しかし、これを光とするなら、影として人々に根付く差別意識というテーマが裏にある。バンチはコンビニ店員しか仕事がないということをバンチの末裔が語っている。これは日本国憲法が保障する職業選択の自由の侵害ではないかと感じたが、制度上の差別撤廃はともかく、異質な存在に対する事実上の違和は並行世界にとどまらない。ファッションショーのシーンではバンチの民族衣装の正式な着方が分からなくて炎上するが、こういった繊細な感情も世界は問わないだろう。バンチのアイデンティティについて1つ気になったのは、コンビニ店員の中に自分はバンチの末裔だと勘違いをしている登場人物のこと。瞳の色は日本人と変わらないはず。だとすると、身体的特徴は遺伝しないこともあるのか。ならば民族として残るのは文化しかない。その文化すら劇中ではほとんど残っていないように見受けられた。残っているのは公有地になってしまった「0番地」に帰る ための鍵と、いつか帰るのだという祈り。 

最後は、冒頭の回想シーンの将来。トクと三牧は繋がりを取り戻し、とても幻想 的な光と音楽で締められる。ゆっくりと歩くトクの姿はなぜか分からないが祈りを示しているように見えた。帰り道、余韻のままに見上げた空には最後のシー ンと同じ色の、満月1日前の月が浮かんでいた。この日本と繋がっているようで繋がっていないような不思議な並行世界を観られて良かった。

 

藤城孝輔 氏(岡山理科大学教育講師)

吐息と動きと陽気さと ――『0番地』

(藤井颯太郎[言葉]、本城祐哉[動き]、京都府立文化芸術会館、2020年2月8日)

 

冒頭、幻灯劇場の出演者の一人があいさつをする。彼女は見ていて心配になるくらい緊張を表に出している。「いやぁ、緊張しますねぇ…。[…]一度話してしまった言葉とか態度はもう取り消したり、取り戻すことはできませんから」と苦笑を浮かべる彼女は声を震わせ、言葉を詰まらせ、何度も深く息をつく。彼女を狼狽されるものは舞台演劇が本質的に持つ一回性、再現不可能性に他ならない。しかもこの音楽劇『0番地』は「たった一度しか上演されることがありません」という触れ込みを広く行っている上、60分という短い上演時間にもかかわらず15人もの演者が携わる群像劇という大がかりな形式を取っている。プレッシャーはひとしおだろう。

 

400席程度の中劇場の観客を前に緊張しているようでは、プロの演劇人として問題じゃないのか? そんなお節介な心配は杞憂だった。上演台本を確認してみると、あいさつも言葉の途切れも深呼吸もちゃんと台本に書いてある。われわれ観客は(少なくとも私は)まんまと欺かれたのだ。彼女がわざわざ演じてみせた緊張は、作品の主題を予兆するものである。「バンチ」と呼ばれる被差別民族の歴史を背景に、本作では一瞬の怯えと一つの吐息が生んだ取り返しのつかない破局が語られるのだ。

 

バンチはあくまで架空の存在ではあるが、日本に実在するさまざまなマイノリティが重なって見える。ゲットーのように分断された居住区に基づく差別は部落差別を彷彿とさせる。バンチは戦時中の徴用工と同様に労働力として強制連行されてきた歴史を持つが、日本人はそれを単なる「出稼ぎ」と記憶している。さらに、彼らは日本の小さい島の出身だが公有地となったために故郷に帰れない。あたかも日本全国の米軍基地施設の約7割が島を占有する状態が続く沖縄を下敷きにしているかのようだ。そして失われつつある固有の文化を持つという設定はアイヌ民族を意識したものだろうか? これらの部分的な類似性は絶妙に組み合わせられているため、何か一つが直接的なモデルになっていると断言するのは難しい。『0番地』というタイトルにあるゼロの部分には、観客それぞれが違った像を投影することが可能である。

 

近すぎも遠すぎもしない現実との距離の取り方は本作全体を通して見られる特徴である。セリフや歌詞の中では「海辺のカフカ」や「綾鷹」といった固有名詞がカジュアルに言及され、身近な雰囲気を生み出している。一方、デザイナーの三牧がひきこもりの青年によって密室に監禁されるシーンでは映画『ソウ』シリーズ、神のように振舞う日本人客に対するコンビニ店員の隷従を「ヘブンイレブン」と揶揄する歌ではセブンイレブンがそれぞれパロディの対象となっている。しかしこうした既視感を演出しつつも、本作はどこか現実離れした雰囲気を持っている。死んだ祖母が若い頃の姿で現れるファンタジーのようなシーンもあるが、現実感の希薄さは何よりも音楽劇というジャンルによる部分が大きい。

 

だが本作においてミュージカルの要素は単に目と耳を楽しませるのみならず、物語の社会的意義を伝えるために不可欠な役割も担っている。最初に歌と踊りが挿入されるのは、三牧が恋人の佑香にバンチであると告白される夜道のシーンである。三牧は日本人よりも色が薄いとされる彼女の瞳を懐中電灯で照らして覗き込み、絶句して息をつく。すると音楽とともに若い男女のペアが複数ステージに登場し、三牧が佑香にするのと同じように男が女の瞳に電灯を当てて踊りだす。ここで男女のペアが一組から複数になることにより、三牧と佑香という個人の物語はより一般的な日本人と被差別少数者との関係に敷衍される。佑香がバンチであることを知った三牧の反射的な緊張と怯えは、マイノリティである他者と直面した社会の偏見と恐怖心を代表するものとなるのだ。

 

ダンスの動き一つとってみても工夫が凝らされている。複数の男女のペアが躍る序盤のシーンでは背景に向かって強いライトを当てて、演者の影を背景に映し出していた。これは歌詞に出てくるイメージを影絵として表現するためである。例えばアダムとイヴを作る創造主の手は、ライトに手をかざして踊り手たちの影の上に大きな手の影を重ねることで表される。また、踊り手たちが両手を頭に載せて腕と頭で目の形の影を作ることで、他者を覗き込む黒い目というまなざしの暴力を体現する。それぞれの所作に作品のテーマとつながる意味を与えることで、ダンスをより豊かなものにしていると言えるだろう。

 

本作の最大の魅力は陽気さであると私は思う。全編を通して笑えるシーンが豊富に盛り込まれており、差別を扱った作品にありがちな重く陰鬱な内容になるのを避けている。もちろん劇中でバンチが受ける無理解や偏見は真摯に描かれており、時として物語は深刻である。それでも登場人物のやり取りや振舞いには滑稽さがある。とりわけ、着方のわからないバンチの伝統衣装をめぐるファッションショーの舞台裏のシーンはコントのように笑える。重いテーマで若い観客を遠ざけることなく、登場人物の境遇に共感させることに成功していると言える。笑いで心を揺さぶられたぶん、感動も大きい。

 

これほどまでに周到に構成された本作がたった一回だけしか上演されないのは非常にもったいない。おそらく取り返しのつかない一回性という作品のテーマを強調するために見栄を切ったのだろうし、また劇団員全員の参加を要する内容であるため再演が難しいという現実的な制約もあるはずだ。けれども『0番地』はより多くの観客に見られるべき作品だと断言できる。再演の機会にぜひとも期待したい。

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