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【劇評掲載】

 

U30支援プログラムに採択されたルサンチカの上演について劇評公募を行いました。

また、劇作家や演出家等のプロフェッショナルの方々からも劇評をいただいています。

上演されたその作品に対してどういった眼差しが向けられたのか、掲載いたします。 

 

【劇評公募】

川﨑真

中井乙希

中谷利明

永田悠

渡辺たくみ

 

【劇評】

田辺剛

谷竜一

椋平淳

村川拓也

 

敬称略

 

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上演作品

ルサンチカ『GOOD WAR』

上演日程:2021年 2月5日(金)、6日(土)

会場:京都府立文化芸術会館 ホール

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劇評公募

川﨑 真 氏

(幼児教育研究家・講師)

 

ーーー生死観の礎を探る。ーーー 

まず、昨年のルサンチカの「SO LONG GOODBYE」に引き続き、今回の「GOOD WAR」の劇評も書かせていただく名誉に預からせていただいたことに感謝申し上げたい。くしくも京都府は緊急事態宣言下におけるコロナウイルスとの戦いの真っただ中。当初、こういった社会背景の中なので、あえてこの挑戦的とも言えるタイトルを付けられたのかと思ってしまったが観劇後私の思いはどのように変化したのであろうか。 

昨年の「SO LONG GOODBYE」を観るにあたっては、事前にルサンチカのホームページなどに書かれている情報をかなりの部分まで深く読み込んでいくことにしたが、今回は全く事前に情報を得ずに観ることにした。ある種の戦いである。まずタイトル上の三角形が目に付 いたがこれが何を指すのか分からない。少なくとも観劇するまでは。話は前後するが、全 体を通してこれ程難解な演劇を観たことがない。しかし、逆を言えば演劇とは観る側の感 性や思いによって如何様にも解釈する事ができることがその醍醐味の一つであるはずである。又、私の劇評を一度でも読んでいただいた人には分かると思うが、一般的な解説や感想にならないように心掛けている。これも広い意味での演劇の醍醐味と言えるかも知れな い。 

話を元に戻そう。私はこの三角形を「この世、あの世、中間の世」と解釈する事とした。「中間の世」とは、死んだ人達があの世に行く前に立ち止まり今までの人生を振り返り、 他の人と議論しながら自分の人生を総括する場所と理解してもらえば良い。次にその舞台構成であるが、私は京都府立文化芸術会館には何度も足を運んでいてその規模や音響などに関して熟知しているつもりである。しかし今回の舞台構成は変わっていた。緊急事態宣 言下での観客の人数制限を逆手に取った物で有るのか他の特別な理由があるのかは分からないが、舞台と観客席が逆の構成になっている。観客は観客席から観るのではなく舞台上に作られた席から演劇を観るのである。演者は観客席で演技をするといった舞台構成であ る。前記した「中間の世」がこの観客席を利用した舞台で展開される。音響などが上手く行くのか心配になる側面もあったが、いずれにせよこの緊急事態宣言下で相当な苦しみや 試行錯誤があったに違いない。関係者各位には頭が下がる思いである。 

舞台が始まると前記の私の心配事は払拭されることになる。音響の脆弱さはあるのだが、 観客席を上手く利用し最後尾の扉を開けて演者が登場する場面などは逆光をうまく利用して演者の姿をはっきり見せない様にしたり、ドラムをはじめ様々なアイテムを無造作に配 置するなど通常の舞台構成ではできない要素が散りばめられていた。このことから音響の脆弱さを差し引いても私の心配は払拭されたのである。 

舞台の内容に話を移そう。今回の舞台も前作、前々作に引き続き、演出家の河井朗氏がさまざまな人にインタビューすることから始められたそうである。私は今まで多くの舞台 を見て来たが、これ程「死ぬ」という台詞が繰り返されるものを見たことがない。「GOOD WAR」 というセンセーショナルなタイトルであるが、この意味を探る事から始めたい。これは、「戦争=死ぬ」や「良い戦争悪い戦争もある」「日々の生活も戦争だ」などといった単純なものではないと思われる。もちろん人それぞれ感じ方があるので、私の考えを押し付けるつもりは毛頭ないが、私はこのタイトルを観劇途中から「生死観」と解釈することにした。 生死観とは自分や他者がいかに生きいかに死ぬか、残された者はその死をどの様に受け入 れるかなどの考え方を意味する。 

劇中にテロという台詞が出てくる。テロとは自らは普段と同じ生活を行いながらも自分の意に反して突然訪れるもので死に至る場合もある。自らの意に反して突如訪れる死に、交通事故や東北、阪神淡路に代表される大規模な震災もある。重要な点は自分の意に反して という点である。これとは逆に自ら死を望む人もいる。現実社会の中で何か苦しい戦いをしている中でそれを望む人もいれば、何となくそれを望む人もいる。医療従事者の方が他者の死に数多く接する場合もあり、病気や介護などで近親者の死を間近に迎えようとしている人もいる。このように自分や他者の死ぬまでの時間的距離がその生死観を作る礎になるのではないか。今回の舞台ではこういった生死観が製作者の伝えたかったことではないか。と思うようになった。 

ある映画監督が「死ぬことは全ての人に与えられた保険である。死ぬことによって闘病や借金などのあらゆる困難から解放される。」と言われたことがある。もちろん死を賛美しているものではないが、今回の舞台を観て、人間が生きるという行為が「GOOD WAR」ではないか。と強く思うようになったが皆さんはどのように感じられたであろうか。 

 

 

 

中井乙希 氏

(身体表現・パーソナルスタイリスト・ラジオパーソナリティー)

 

観ていてとても不思議な感覚なる作品だった。

 

この作品の中の役者のセリフは、繋がっているようでいて、とりとめがない。

バラバラなようでいて、何となく繋がっている。。。

テンポもそれほど変化せず、何か同じような旋律がずっと流れている。

その流れ方が、まるでいつもなら意識していない、頭の中を流れる膨大な量の情報が、目の前で見える形で繰り広げられているようなそんな感じだった。

 

私たち人間は一日に5~6万回も思考していて、そのほとんどは意識していないといわれる。

そんなたくさんの無意識の思考が目の前に現れて、今現在だけでなく、普段は忘れてしまっている過去から、未来までのいろんな考えや思考が、ふわっと目の前に現れては消えていくようなそんな感覚だった。

だからなのだろうか、舞台と客席が逆転している事も、特に違和感がなく、自然なことのように感じた。

 

今回の「GOOD WAR」は三部作の集大成で、その根底にあるのが「死」なのだろう。

だから作品を観ていると「死」についても色んな考えが浮かんでくる。

私も幼いころから20代くらいまでは「死」というものを身近に感じていた気がする。

でも大人になった今の方が「死」がより近くなっているはずなのに、年を重ねるごとに「死」よりも「生」を意識する事が多くなった。

もしかすると生まれてからの時間が短い方が、つまり若い人間の方が「死」を身近に感じるのかもしれない。

そんなことを役者のセリフを聞きながら考えていた。

 

そしてきっと「死」と「生」も表裏一体なのと同じように、「戦争」と「平和」も常に一緒に存在するから、自分の立ち位置によって見え方が変わるのだろう。

「GOOD WAR」

和訳するなら「良い戦争」というのだろうか。

個人レベルで考えるなら、「戦争」と言うよりは「戦い」と言った方がしっくりくる。

 

「戦い」のイメージは、人を傷つけたり、ネガティブなイメージが多いが、「戦い」にはポジティブな面もあって、人間にとって、とても大事な部分を担っていると個人的には思っている。

例えば、日常の中のほんの些細な出来事で言えば、朝まだ眠っていたい自分と戦って起きるとか、怠けたい自分と戦って仕事や勉強をすることもそうだ。

私たちの体の中でも「戦い」は常に起こっていて、免疫細胞が細菌やウィルスと常に戦ってくれているからこそ、私たちの身体は元気で健康でいられる。

そして何か新しいものを作り出す時や新しい事を始める時も、私たちが人生をより良いものにする為にも、ある意味では今の自分や今の状況と戦っているといえるし、「挑戦」し続けることもまた、戦う気持ちがあるからこそできることだと思う。

 

「GOOD WAR」

色んな意味にとれる言葉だから、この作品はきっと観る人によって感じることも全く違うのだろう。

最近、ポジティブに生きる事や挑戦する事は、命を輝かせ続ける上で、とても大事なことだと思っていたので、このテーマはタイミング的にとても面白かった。

そして観終わった後、ちょっとした長い旅をした気分になった。

 

<ルサンチカ>

これからの活躍がとても楽しみだ。

 

 

中谷利明 氏

(記録家/重度訪問介護ヘルパー)

 私は重度訪問介護という、独居生活を送る重度身体障がい者の方の生活支援をおこなう職に従事している。単身生活を送る利用者さん(身体障がい当事者の方)の生活を支援するというのが業務の内容だ。食事、排泄、外出、体位交換(床ずれを防ぐために体の向きを変える)など衣食住全般のお手伝いをするのだが、利用者さんと長時間おなじ空間にいるため、自然と些細な身の上話や趣味についてのおしゃべり、笑い話をしたりなど、それなりに関係性が形作られていく。
 京都府立文化芸術会館の客席につき、開演してしばらくの後、私はこの重度訪問介護の仕事での出来事を思い出していた。観劇の話題に戻るまえに、しばし訪問介護の話をつづけたいと思う。

 介護の現場には四肢の自由だけでなく、気管切開手術によって発語が困難になってしまった方も多くおられ、私が介助に入っている利用者さんのなかにも、気管切開に加えて脳性まひであるためにベッドで寝たきりの日々を過ごす方がおられる。脳性まひによるものなのか、ただ受け手である私の未熟さのためなのか判然としないのだが、その方の介助をしていると、時折、顔の表情の変化からその時々の気分や感情をうまく読み取れないことがある。笑っていると思ったら怒っていたり、怒っているのかと思ったら爆笑していたり…。もちろん気管切開をしているため、発語による伺い立てもかなわない。そうした場合、利用者さんとの言語を介したコミュニケーションにはふたつの手段がある。ひとつはコンピュータの音声入力システムによる文字入力。利用者さんが舌を打ち鳴らすことで、マイクを通じて画面上のキーボードを操作し、ヘルパーに伝えたい内容を文字で打ち込むという方法。もうひとつが透明文字盤による会話。ひらがな五十音や0~9までの自然数が記載された透明のアクリル板を利用者さんの顔の前にかざし、目線の先の文字を追って指差しで一音ずつ言葉を拾っていくという方法だ。これがとても根気の必要な作業で、ただのワンセンテンスを聴きとるのに一時間以上を要することさえある。そして、このワンセンテンスを聴きとるのに要する時間の中で、ヘルパーと利用者さんのあいだでさまざまな非言語的コミュニケーションが交わされる。一文字目から類推した言葉を投げかけてみたり、なにかを取ってほしそうだったら目線を追ってそこにある物を目の前に差し出してみたり…。そうした四苦八苦を経ても聴きとりを完遂できないことも多くある。というか、聴きとれたと思っていたが、後になって確認してみたところ、ぜんぜん違ったということさえある。しかし、なんだかんだ介護の時間は過ぎていくし、そうしたなかでなぜか彼の人柄がつかめてきて、不思議と、利用者さんもなんとなく私の扱いをわかってきているように思えてくる。これら経験を通して、語り手が伝えようとしていることが受け手にズレなく伝わるということのほうがコミュニケーションにおいてむしろ副次的なものなのではないかと、私には思えてきた。聴きとりや語りかけの失敗がすなわち、コミュニケーションの失敗ではないのだと思う。

 ルサンチカ『GOOD WAR』では、複数人を対象にして実施されたインタビューの語りを戯曲として編み上げ、その内容を舞台上(客席も含むホール全体が舞台になっている)に立つ四人の役者が口々に語っていく。インタビューの対象者はバラバラの出自を持った人々で、同じインタビューに対する語りの内容はそれぞれに異なっている。特殊清掃と思われる仕事現場での出来事が語られたかと思えば、第二次大戦の沖縄上陸戦についての語りがつづけて語られるのだが、個々の語りは任意の箇所で切り取られ、繋げられることで、語りのパスゲームか連想ゲームかのように編集されている(音楽的なテンポのよさが重視されているため「編曲」とも言えそうだ)。それは、思い出話をしているときに、不意に、脈絡なくある思い出が芋づる式に想起されていくときの、不思議なあの感覚が言葉の連なりによって再現されているようだった。

 私は過去2作品(『PIPE DREAM』『SO LONG GOOD BYE』)の鑑賞にあたって感じていた「自分の知らない記憶を見せられてる感じ」の原因はここにあるのではないかと感じた。それは、インタビューという試み自体が対象の記憶を掘り起こしていくものであることに起因しているだけでなく、一本の戯曲としてまとめられた語りの集積の朗誦が、最低限の舞台美術のみで構成され、客席と舞台の境界線も曖昧な薄暗い空間でおこなわれることによって惹き起こされた一種の陶酔状態なのかもしれない。

 記憶を視覚的に表現するとなると、それは大体において就寝時に見る夢のような形をとるように思われる。夢の内容は夢占いや精神分析などにおいて、「象徴」として、解釈されるものとして扱われる。専門的な知見に頼らずとも、誰しも一度は印象的な夢を見たあとにネットの夢占いのページで、自分の見た夢がなにを象徴しているのかを検索したことがあるのではないだろうか。

 『PIPE DREAM』に始まるルサンチカの三部作には、そうした、観賞者の解釈を誘うような演出が多く用いられている。『PIPE DREAM』における、役者が宙づりにされた状態で語りをおこなう表現などは「宙づりにされた状態での語り=たゆたう記憶の不確かさ/生と死の狭間」、『SO LONG GOOD BYE』では「真空パックされた大量のバナナ=規格化され消費される労働」というように、私は反射的に解釈してしまった。そして今作、『GOOD WAR』においては役者の動作と語りのミスマッチ、それぞれ別の動作と語りをしている役者が、ある瞬間にコミュニケーションが通じているように見えてしまうという演出が取り入れられていた。たとえばこういった場面があった。 ―たまたま寝転がっている役者(諸江)の上に、たまたまもうひとりの役者(渡辺)が登り、諸江の顔をギリギリ踏まないように渡辺が諸江の顔の横に飛び降りる。渡辺は「ごめん」というが、それはインタビューの語りの言葉であって、諸江に対する言葉ではない。―

 ひとりの人間の行為と言葉のズレや、相対するふたりの人間の行為と言葉のズレは「隠された本当の意味を探したい」という観賞者の欲求を駆り立てる。

 ここで最初に話した介護の話に戻る。脳性まひや発語の困難を抱えた人々と会話を交わす際、文字盤での言葉の拾い上げが困難になってくると、ついつい表情から相手の感情を読み取ろうというコミュニケーションの作法を適用したくなってしまう。というか実際にやってしまう。私のような表情筋の制御が比較的自由におこなえる人間でも、自分では思ってもいないような表情をしてしまっているもので、不機嫌でもなんでもないのに「今日、不機嫌なの?」と言われることはある。しかし、そこで私は即座に「いいえ。ちょっと目が疲れてるだけ」とか、「つい癖で…」といった言語による意思の伝達と修正が可能なのだ。発語や表情筋をうまく扱えない人々にはそのリアクションを即座に打ち出すことが難しい。早とちりな解釈や、伝えたいことを先回りして理解しようとする行為は暴力的なものになりかねない。そこでは解釈を中断すること、目の前の語りを忠実に受け止めるように努めることが必要になってくるように思う。『GOOD WAR』における避けられない争いとは、相対するものや問いを、自らが持つ理解の限界のうちに押し込め、矮小化しようとする解釈の暴力に対する争いであり、語られる言葉の示す裸の現実をなんとかして受けとめようと耳を傾ける、気の遠くなるような試みのことではないかと私には感じられた。しかし、なにか自分の理解を超えたものを解釈を排してあるがままに受けとめようとすることは実際には不可能であり、無理に実行しようとすればその行いはそれこそ暴力的で虚無的なものとなってしまうのではないだろうか。そうは言っても私たちには語り合うことが必要だと思われる。これは舞台芸術に限られたことではないだろうが、少なくとも演劇という営みは、そうした途方に暮れるような、矛盾にまみれた問いに対する応答を再演しつづける、ひとつの戦場であるかのようだ。行き詰まりのなか、まったく活路が見えない状況であっても根源的なところで発せられる応答が「GOOD WAR」なのだ。開演直後、私たち観賞者に背を向け、高らかにこぶしを打ち上げて叫ばれた伊奈の「うぉーーーーーーー!!!」の一声が、この作品のすべてを語っている。

 私は解釈の中断に耐えきれず解釈する。答えこそは語られないまま、解釈はまず私にとっての救いとなる。そして、あなたにとっての暴力とならないことを願う。

 

永田悠 氏

(会社員)

 

「あの日」の隙間にモニュメントをお供えして

直後の余韻。シーン、音、イメージが断片的にちらかっている。言葉にできるのだろうか。途方に暮れながら川沿いを歩いて駅に向かう。ずっと、集大成だという言葉だけが頭に浮かんでいた。
不思議なことに1日、1 日と離れていくにつれ浮かぶ言葉が増えてくる。それぞれの「あの日」。「PIPE DREAM」、「SO LONG GOODBYE」、「GOOD WAR」 は順序を入れ替えたり混ぜたりしても成り立ちそうな連作だ。「GOOD WAR」を中心にいっしょくたにしてみる。 

 

<比較> 1作目は河井さんが吊られ、2作目は渡辺さんがバナナを吊り、本作の会話のような形式とはなにか違うように思える。ただ、「理想の死」、「仕事」については、 1人で語ることができるが、「争い」は相手が居ないとできないと考えれば、誰かの声を通して繋がっている。とはいえ、1つ1つは現実の生身の誰かが発した声に違いないはずなのに、全体として見ると概念のように混ざりあう。前作までは誰かが発した言葉の意味を考えていたのだが、本作ではもっと抽象的な全体として捉えている。 舞台と観客席の逆転。観劇人数が絞られために劇場を広く使おうという演出があったのではとの想像もできるが、「争い」においては誰もが舞台に上がらざるを得ないとの解釈もできる。他に、1 作目、2作目あるいは他の演劇で京都府立文化芸術会館の舞台を観たことがある人にとっては、舞台上から観客席がどう見えるかを知ることができる貴重な体験。嬉しくて始まる前からマスクの下でにやにやする。 音の数。1作目は静寂の中、柱時計のようなコツコツとした音が響いていて、2 作目は真空パックんのぶぉーという音が鳴っていた。音が変わったタイミングで真空パックができあったことが分かる。本作は出演者が増えたことにより、誰 かの声を語る声(音)が増えたというものがある。さらにドラムが加わって、比べるとずいぶんとにぎやかだ。ドラムが鳴り響くなか、マイクスタンドを銃に見 立てたシーンは「GOOD WAR」において重心なのかもしれない。マイクスタンドに必死にしがみつきながらマイクに音が入った(ように見える)瞬間しか声が 聞こえないというところから、「生存」は「声」を上げている間しか他者には認 識されないというイメージが浮かんだ。そうするとドラムが心臓の鼓動のよう に聞こえてくるのかもしれない。発射される弾丸の中身は果たして何だったの か。 

 

<あの日> 語られる声は「あの日」の「誰か」であり、「誰か」の今とさえ距離がある。明るくなった観客席に散らばるモニュメント群の第1印象は「絵画」だったが、これを心象風景と捉えると、モニュメントは言葉として再現されない記憶の1部のようでもある。この心象風景のイメージの中で動いたり声を発したりする出演者たちは、外に顕われることができる「あの日」そのものなのではないか。 「あの日」の概念には未来も含まれる。確実に起こる未来としての「あの日」は「死」だろう。本作の声には「死」にまつわるものが多かった。共感したのは、 自分は他人の死を悲しむが自分の死で誰かに影響を与えたくないというような台詞。たしかに、そうなったらすぐに忘れて通常営業の生活に戻って欲しいと思う。こうやって最終的には自身にまなざしが向かってしまうのもこの3連作の特徴だと思う。「私」はこうです。では、これを観た「あなた」はどうですかという対話のようだ。対話であれば応答しなくてはならない。 

 

<持論> 「争い」について思うこと。他人と争うことが頗る苦手で何かを勝ち取ることに対する欲求がほとんどない。格闘ゲームのアバターのシーンのようにゲーム性に没頭できればもう少しうまく争うことができるのかもしれない。ただ、「争い」はなにも外とだけ行われるものではない。自分の内部でも頻発している。個人的な見解として「争い」の中核はここにあるのではないかと考える。悩み抜いて決意する過程にある葛藤や、誰か、ひいては世界に対して折れない部分をどのように設定するかにおいては、内側にある自分の消極性や否定的見解と戦っていかねばならない。「争い」と「死」と「仕事」が結びつける状況が何かと考えるとやはり戦時下だろう。世界史、日本史、人類史、どの時代にも戦争が起らなかったことはない。 今まさに起こっている自然の脅威との争いも全てが結びついているといえる。仕事の形態は変化し、起こる前より「死」との距離が近くなった。自然も含めて考えればたしかに、「争い」はなくならないかもしれない。しかし、理想論かもしれないが、自分は人間が全体的な争いを肯定し切っているとは思えないところがある。なかなか難しい。 

 

<統括>
言葉にしていく試みは、「あの日」を発掘する作業のようだ。1 年前のあの日は雪が降っていたとか、2年前のあの日は当日券を買おうとしたら予約扱いにしてもらったなとか(その節はどうもありがとうございました)。2 週間前のあの日はとても暖かかった。演劇が始まったとき観客席のドアが開いていて、これ閉め忘れではないのか、大丈夫かと勝手にひやひやした感情。そのあと渡辺さんが入ってきたため問題なかったことに気付く。伊奈さんのドラムの迫力。諸江さんが演じる声の中にあったお姉系の人の魔女感。いつの間にか舞台に顕われていた山下さんがもぞもぞと中心に向かう姿がとても気になったこと。あらためてモニュメントを考えると、言語化できない「あの日」という意味の他 に、「あの日」にならなかった痕跡という意味もあるのかもしれない。日々選択という争いをしながら生きていかなければいけない人生の中には、選ばれなかった「あの日」も含まれている。分岐点に供えられるモニュメント。そうすると
人生はモニュメントだらけになるが、戦いの跡を認知し承認した上できちんと 自分を生きていくことがモニュメントの供養にもなる。これを「GOOD WAR」としておきたい。人生という自分の舞台上で「良い 争い」を続けていこうと思う。

 

 

渡辺たくみ 氏
(nidone.works)

 

tofubeatsが雑誌のTVBros.で連載していた「クールひょうごJAPAN」というコラムが好きだ。私は文章を読むのがとても苦手だが、あの文章の調子ならば小難しいイメージのある劇評もスラスラ読めて楽しいはず。そもそもコラムと劇評は文章の目的が違うが、劇評は読んでいる途中で、いやむずいむずいむずい!そもそも自分その上演を観てないんよ・・という気持ちになったり、書き手の表情や性格が掴みにくいため文章に愛着が湧きにくい。誰かの舞台作品を評するのでふざけた文を書くと失礼にあたる。作品を尊重しつつ読者に優しい劇評が書けるようになりたい。舞台作品を観てアンケートにガッツリ感想を書く人は少なく、ましてや劇評を書く人はもっと少ない。でも観て終わりだと勿体ない。舞台の感想や劇評が何を生み出すかは分からないが、確実に何かしらへ影響を与えるものだと思う。先日終演した、河井朗が主宰の演劇カンパニー・ルサンチカの新作公演『GOOD WAR』は劇評公募が行われていた。この劇評は元々Twitterに個人で公開した文章だが、正式にU30支援プログラムの劇評として残して頂けることになった。へたっぴだけど許してほしい。

 

 本作は、アメリカの作家スタッズ・ターケルが第二次世界大戦について様々な人へインタビューした内容を記した『よい戦争』という本が原案だ。河井朗が京都・広島・沖縄などで戦争や争いについてのインタビューを行い、そこで聞いた言葉を台詞にして作品を構成している。会場は京都府立文化芸術会館で、私たち観客は常設のステージ上に並べられたパイプ椅子に座り、観客の居ない客席がステージになっている。このような劇場の使い方をしている作品とたまに出会うが、本作はその演出が作品のテーマとうまく連携していた。作品で扱う争いというテーマには「人種を跨いだ戦争」から「現代の暮らしの近くで起きている争い」まで幅広い意味を含み、過去・現在・未来と様々な時代における争いも範疇にある。そのような意味や時間の範囲をまとめずに、演者と台詞の区切りによって様々な事象の言葉を並走させて上演していく。第二次世界大戦について話す演者は客席の最後列の後ろに立ち、現代の争いについて話す演者は客席の最前列よりも前に立っている。私たち観客から近くの場所と遠くの場所にいる演者が時代や詳細の違う争いの話を奥・手前・奥・手前と分けて話し出すことで、段々と視覚的な距離が時間の尺貫に感じられる。離れて話す演者の間を赤いシートの客席が埋め尽くされている様は、過去と現代の間で亡くなった人の血のようにも見えた。

 

 観劇をしていない人へこの作品について話すとき「時間を扱った言葉を観客自身が実際に目で見た距離で体感できる実演展示型の実感作品みたいだった」と言ったとして「え、なになになに??」と返される事になるだろう。本にも映画にも絵画にも音楽にも生み出せないものがある舞台作品だと言って片付けてしまうのは避けたい。上演中の観客の体感や気づきが作品に説得力を保たせている事、ステージ上で作品を観ていた私たちの存在も作品の一部のように感じた事は共有しておきたくなるポイントだった。

 

 上演の後半では演者が自身の死に対して、どう感じ、どう捉え、何を望むのか、という内容を話し出すシーンがある。台詞にも似た表現があったが、私たちはフィクションの中で描かれる死を客観的に受け取ることで、いつか自身にやってくる死と向き合う事を良い具合に誤魔化しているような節があり、そしてその節に気がついた時にゾッする。人生経験が自身の考え方や未来の行動に影響を与えると多くの人が考えているように、私もそう思うタイプだ。舞台作品から影響を受けた感情をなるべく大切にしたいので、普段は観劇の帰り道に音楽を聴くことを避けるが、この公演の帰り道は映画『TOO YOUNG TO DIE!』のサウンドトラックを聴いた。おそらく、観劇中に自身がいつか体験する死の存在と向き合ってしまい、その苦しさを打ち消すための音楽だったように思う。『GOOD WAR』の作中に「死んだら無」という台詞があったが、私は無意識の中で死んでも天国や地獄のような場所の存在があることを信じたかったのだと思う。すぐにフィクションの作品を欲してしまうのはあまりに単純な行動だ。この後、お腹の空いた私の足が唐揚げ食べ放題の定食屋さんへ向いたのも単純な行動である。

 

 どれだけ想像しても分からない未来のことや死んだ後の事を考えるのは怖く、日頃から常に考えて生きていたらストレスで滅入ってしまう。しかしだ。舞台芸術の起源を遡ると歴史的に祭や奉納などと関連することが多い。また、青年団の主宰である平田オリザが「演劇にはもともと老いや死をどのように受け入れていくかというシミュレーション的なところがある」と話しているWEBの記事を偶然にも見つけて、あ、やっぱりそうですか、オリザさ~ん!なんて思ってしまった。(ちなみに私はオリザさんと会って話したことはない。)そんなこんなで私は、滅入るような事とたまに向き合う時間も、自身の心の中で開催される特別なイベントでありフィスティバルという認識でも良いのではないかと感じた。

 

 舞台芸術は国や社会を変えるものか、正直それは規模感が大きすぎてピンとこない。ただ、作品を観た観客の一瞬の行動や会話の表現を変える力は舞台芸術に必ずあると思う。街角に少し風が吹くくらいの小さな規模感で生まれる「新しい考えと表現」は芸術からやってくる事も多いはずだ。感想や劇評で生じる小さなコミュニケーションが他者への理解を広げるキッカケになるのならば、劇評公募を行っている『GOOD WAR』の公演の存在自体がどこかで起きている争いを和らげる薬になるかもしれないよね、って思う。

出典:ダイヤモンド社 特別広告企画

   「多様化するエンディングのかたち 納得&安心の弔い・供養」

   https://diamond.jp/articles/-/13438

 

2020年度の劇評公募はこちらからご覧いただけます。

 

 

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劇評

 

田辺剛 氏

(劇作家・演出家/下鴨車窓)

 

 さまざまことばが集められるというときにそれが書籍になっていればどうだろう。展覧会の絵を見るようにたどっていく、ページをめくり、ふと遡ったり、時に一つのことばの前で長い時間とどまることもあるだろう。かつて発せられたことばに想像力を膨らませ解釈する。そのように一つ一つのことばと向き合う時間が受け取る側にかかっているからこそ向き合える、書籍はことばと出会う有効なカタチの一つだ。

 一方で、さまざまなことばを誰かが代弁するのを聞くというときには、一つ一つのことばに向き合う時間は代弁する側にかかっている。受け取る側はことばと出会う一瞬に緊張しつつそれを待つほかない。書籍とはまったく違うことばとの出会い方だ。聞き逃してももう一度聞くことはできない。なんとも不便なように思える。しかし一瞬の出会いにことばが凝縮されるのを感じられるとき、わたしたちは一回きりだが替えがたい体験をすることになる。ことばが生きているということを改めて知ることになる。問題はその替えがたい体験がどのように実現されるかだ。

 上演のなかでドラムが叩かれリズムを刻みそこにことばが呼応するように発せられる時間が魅力的だった。そのドラムの震動は聞き手の身体の芯に響いてわたし自身の鼓動とも共振する。ドラムの震動とリズムはわたしたちの生そのものである。そこにことばが重ねられるときにことばは思考の産物、なにかを考えたり感じた結果ではなく、わたしたちがなにかを発しようとする衝動そのものだと知る。ことばの意味内容も大切ではある、けれどもそこで体験するのはことばの原始に触れることだった。ドラムが叩かれることによって、ことばが現れる時間を代弁する側が一方的に操作するのではなく、受け取り側と共有することができた。ことばが途切れてドラムのリズムが続くときに、わたしがことばを聞き逃しているのではないかと勘違いするほどだった。

 いっそのこと全編がそのようにドラムが刻むリズムで貫かれていればいいのにと思ったのは、それ以外のところでは代弁する側の時間の操作があからさまに感じられたからだった。タイムラインそのものはしっかりと構成されていたように思われるが、それを共有するための装置がドラムの時間以外にはなく、結果としてほとんどが饒舌な時間に観客は立ち会うことになる。そこではTwitterのタイムラインに流れる膨大なことばを目の当たりにしてソッと画面を閉じるように、耳を閉ざさざるをえない者もいるのではないか。現代のことばの危機は、その饒舌さが沈黙を覆ってしまい強者弱者の関係になっていることだ。そうした視点があれば、例えばそれは物言わぬオブジェだけではなく終始沈黙しつづける人物がいればどうだろう、劇場でなければ実現できないことばとの出会いの機会はもっと増えたと思う。

谷 竜一

(詩人・演劇作家/京都府地域アートマネージャー)

  

舞台上に客席が並んでいる。設えとしてはすでに演劇の先人が数多試みた意匠で、今更特記するべきことでもないように思われるが、「舞台上に客席が並んでいる」と文章にしてみたときの矛盾というか一種の言葉のねじれた感覚は、この作品の『GOOD WAR』というタイトルとの類似を抱かせる。よい戦争。そんなものがあるだろうか? と観客に考えさせる時点で、この作品は一定の成果を挙げている、と、かなりポジティブに言うこともできる。

その、舞台上に並べられた客席とはなんだったか。無論それはイスの集合で、しかも新型コロナウイルス感染症拡大防止の観点からか、イスごとに微妙な距離を空けて置かれている。あるいはその距離は単に、荷物置きスペースにでもしてくれ、という制作者の親切心だったかもしれない。実際のところ意図はわからない。その微妙な距離の、イスに座る。マスクをして、しかもこんなご時世なので(ご時世関係なくそうなっていたかもしれないが)それなりに演劇に造詣があるような、関係者とは言わないまでも一家言ありそう、あるいは並々ならぬ心を寄せる用事あるいはポリシーを持って観劇に臨んでいそうな、つまり結果的にやたら知人が多い来場者のなか、若干気恥ずかしい気持ちで座る。平時の観劇よりいっそう恥ずかしいような気がするのは、そのイスの微妙な距離感と、そして眼前に広がる「かつて客席だったイスたち」が異様なほどみっちりとこのホールには詰め込まれていて、かつてわたしたちはそこに仲睦まじく隣り合っていた、という事実に気づかされるせいだ。その整然とした、隙間のないようすは、わたしに軍隊を思い起こさせる。演劇を観るために、雑談のひとつも口にしない、よく訓練されたわたしたちは優秀な部隊であった。舞台に座っているからダジャレで言っているわけではない。

しかしこの作品についてこういうことを書いてしまうのは、さまざまな人物への「よい戦争」についてのインタビューの断片からなる(と思われるだけであって、これが俳優たちや河井朗による詩的な創作であったとしても、別に驚かない。それほど抽象的で、わたしの認識している現実との距離を感じる)セリフたちが、結局のところわたしに、ぼんやりとした類推を繰り返させるしかないからだ。かつて、誰かの言葉だったもの。それはある種の肉感と、奇妙な現実認識を持って「よい戦争」(らしきもの)を描写する。しかし、この「現実認識」は、あからさまに、わたしのそれとは異なっている。おそらく、この作品の作者たちもそう思っている。と、なかば確信的に書いてしまえるのは、その言葉を再生する身体が、ゆるやかながらも生き生きと躍動し、しかしまったくリアリズムに則らない、というか意味があるんだかないんだかきわめて微妙なセンで、かつ日常生活の身体よりは明らかにやや高めのテンションでキープされているからだ。ごく簡単に換言すると、出てくる人が、なんとなく、全体的におかしい。

《この現実》はどこかがおかしい。しかし、どこがおかしいのかは全くわからない。なにしろ、その「現実」の主であるインタビュイーがここにはおらず(多分。客席にはいるかもしれないが、黙っていられてはわからない)、彼/彼女の「よい戦争」(そして、前2年の創作で積み立てられた「仕事」や「死」)の認識とその再生がこれでよいのかよくないのか、もはや誰も訂正してくれない。あるいは、稽古場では訂正してくれていたかもしれない。けれど、上演の時間には、おそろしいほどに訂正の余地がない。上演の時間には、どこかがおかしい現実以外はなにも存在しない(そんなこと、河井朗は重々承知しているだろうが)。

かつて意味のあった言葉を語る俳優たちは、亡霊のようにも思われる(しかしこれも一種の類推あるいは修辞にすぎない。しかもものすごく陳腐だ)。おそらく、彼/彼女らは、この「よい戦争」のせいで、なにかが喪われてしまった。なにを喪ったのか。無理矢理にわたしに言わせるなら、現実への信頼、というかたちの音を出すだろう。

この現実の信頼できなさ。かりに今、わたしたちが「よい戦争状態」にあるならば、その現実をわたしは《よく》認識できていない。だってそんなこと、考えたこともなかった(!)。また、かりにわたしたちが「よい戦争状態」にないのならば、やはりその「よい戦争」そのものは未だ、あるいは永遠に、どこか遠い国の出来事だ。反復される想像力の問題。どちらでもわたしのなかに起きることは変わらない。ドラムを叩きつける破裂音。それが結局のところ銃声にしか聞こえない、わたしの戦争への貧しい認識が、この作品をどんどん貧しくさせる。上演の時間を経るごとにボンヤリさせ、気付かないうちに疲労を蓄積させられる。そしてその疲労についてもやがて慣れ、忘れてしまう。あ 何もおぼえてないじゃん。

上演は気がついたら終わっていた。ところで今、「新型コロナとのたたかい」のなかにわたしたちはいるらしいが、そのような修辞的表現でこの現実を語るのは、ちょっとなんだか気恥ずかしいというか、やるせないというか、「正直やってられない」という気分にならないか。しかし実際、そういう戦士としての役割を自分たちに背負わせないことには、むしろ《この現実》のほうこそ「正直やってられない」という気持ちも、痛いほどよくわかる。痛いほどよくわかるだけで、実際のわたしは痛くも痒くもない。匂いも味もある。しかし、ただただ疲弊していっている。どうでもよいが先ごろから家族が入院していて、これから野戦病院に補給物資を届けねばならない。これは上演とは関係がない。全くどうでもよくないが、きわめてどうでもよい戦争である。

 

(2021年2月6日 11時の回)

椋平淳 氏

(Kyoto演劇フェスティバル実行委員会 委員長)

80億人の全世界が新型コロナと戦うことと、各公演わずか60名ほどの観客や演者がこの『GOOD WAR』公演に臨むこと ― 規模や次元が異なるこの2つの事象の間に、本質的な意義や価値の隔たりはない。今回のルサンチカの“戦い”は、うまく運べばこの極致に到達する…はずだった。

本作の原案は、スタッズ・ターケル『よい戦争(“THE GOOD WAR”)』。20世紀における米国の世界的優位を確立した第二次世界大戦は、米国の“大きな歴史”の中では “GOOD” な価値を帯びるものなのかもしれない。しかし実際は、千差万別の受け取り方や流動性があり、その大戦の“正義”を誇る者だけでなく、逆にネガティブな記憶にさいなまれたり、既存の意義づけを修正しようとする個人も無数に存在する。ターケルは、そうした人々の生の声を次々とつなぎ合わせる。通常は連なりづらいと考えられる複数の語(この場合は“GOOD”と“WAR”)をあえて結びつけた撞着語法をタイトルに用い、違和感や疑念をふくらませ、そのひずみに読者を引き込むことによって、この大戦の深層理解を促す。

ターケルと同じく素材をインタビューに求める構成・演出の河井朗は、まず本家の英語タイトルから定冠詞 “THE” を外した。第二次世界大戦という限定範囲から “WAR” を解放することで、今を生きる多様な人々が直面するそれぞれの“戦い”へと時空を広げる。日本唯一の上陸戦の痕跡が今なお五感に残る南の島での日雇い清掃、動揺する母親の手からこぼれ落ちる500円貯金のインパクト、都会の生ゴミと連日格闘するパッカー収集、河川敷でボコボコにされつつも九死に一生を得た生還など。4人の演者から口々にこぼれるちょっとした告白や、ほんの一言の絶叫は、一瞬聴き逃せばまったく意味不明に陥るようなはかなさの上を綱渡りしつつ、あの時その瞬間の断片的記憶が今ここで延々と再生され、紡ぎ合わされる。それぞれの生活に押し寄せる、おそらくは“BAD”な“WAR”の連鎖と、その痛み…。

ただし、どの断片にも語り手の明示がない。どこの誰の体験なのかを示す登場人物紹介や、あるいはその役を担う演者本人の自己言及もない。昨年、同じくKyoto演劇フェスティバル「U30支援プログラム」ルサンチカ公演『SO LONG GOODBYE』冒頭で、主演の渡辺綾子が「わたしの名前は渡辺綾子です」と語り始めたこととは対極をなす。舞台に立つ演者の自己紹介から始まったこの作品では、後続する無名の人々の仕事にまつわる無数のエピソードの中にも、「どこかに存在する誰かのリアルな体験」という主体性が垣間見えた。そしてそれが足がかりとなり、個々の観客が“特定の個人”としての自分自身を内省し、仕事という営みと各自のかかわりについて改めて意識を向けるというベクトルも、確かに生じた。

今回の『WAR』では、そのような“特定”が省かれた。ある意味、“THE” の除外と同じである。誰一人特定されない、主体性を欠いた脈絡のないたたみ掛けは、SNSのバズ/炎上よろしく、“誰のものでもある”という無名性ゆえの無尽蔵なエネルギーを呼び集める可能性がある。しかし一方で、特定の個人に帰着しない、“誰のものでもない”些細な出来事としてスルーされ、無力化される危険もはらむ。

河井はおそらく、なんとなく“BAD”な戦いが繰り広げられる瞬間を延々と、いや、くどいほど積み上げて増幅することにより、ともすればそうした個々の痛みを無きものにしてしまう巨視的な歴史観や権力に抗おうとしたのかもしれない。あるいは、我々自身の慣れや怠惰を覚醒させ、その“戦い”に「参戦せよ」と誘いたかったのかもしれない。事実、本作の後半を埋めつくすドラムの乱打には無数のメッセージが宿るのだが、その中の重要な一つとして、我々のDNAに深く息づく原始的な戦闘本能に訴える効果が感じられた。

他の観客がどのように感じたのか、私は知らない。しかし正直にいうと、私自身の鼓動はそのドラムの響きに激しく共鳴したわけではなかった。また、演者が語るさまざまな“戦い”の根底にある唸りやうめきに、どっぷりとのめり込むこともなかった。おそらく、2021年2月時点の、己を取り巻く日常/非日常/新日常の混沌たる重みの方が、やはり苦しかったのだろう。残念ながら、最後までその感覚から解放されることはなかった。

単純にみれば、この『WAR』観劇によって自らの日々の“戦い”の深刻さを再確認したのであれば、本作は“GOOD”な芝居だったと評価することもできる。しかし、欲をいえば、目の前の劇世界により深く没入し、作品の波動と我が身を強くシンクロさせることによって自らの内省を深め、追って実生活においての新たな視座や、視点を変えるためのきっかけを獲得するという興奮が体験したかったと思う。それは、作品を傍観することによる冷めた再確認とは本質的に異なる、演劇が提供できる“当事者としての気づき”である。

無論、河井の今回の企てが無策だったわけではない。たとえば策の一つは、観客席と舞台の反転である。本公演で観客は、舞台上に仮設された客席に座した。アクティングエリアは本来のホール観客席と、観客席に近い舞台上のスペースのみだった。会館に入場した観客は本来の観客席を通り抜け、演者の聖域である舞台に上がって着座する。個々の観客の感受性にも左右されるが、開演前のこの入場体験により、観客は慣れ親しんでいるはずの通常の観客席に安住することは許されない。撞着語法と同じく、予定調和にひずみを起こし、より深い精神のうごめきが促されたにちがいない。

二つめは、本来の観客席にさまざまなオブジェを散りばめたことである。これらはすべて、何らかの“戦い”から想起された造形だろう。スケルトンの材質は、照明を浴びて乱反射を起こす。上演中、その様子を観客は舞台上から視界に入れつつ演者の語りを聴くことで、“戦い”の個性や多面性を増幅させる…はずだったが、ホール観客席の広さの割には、オブジェの数や大きさが不足していたように感じる。その隙間を埋めたのが、本来の観客席にある固定座席、つまり、“特定”されない多数の空席という今回限りの舞台装置だった。くわえて、コロナ禍におけるソーシャルディスタンスの要請により、400席の固定座席は1つおきに使用不可を示すバインドが結んである。その200にのぼる締め上げられた座席は、劇中の“戦い”の痛みだけでなく、今を生きる80億人の息苦しさを、はからずも象徴していた。

三つめは、昨年の『SO LONG』では1人だった演者を、今回は4人に増やしたことである。複数の声や身体は、多様な“戦い”や広大な世界の表象を容易にする。かすかに鼻音が混じる、けれども輪郭が明瞭で小気味よい存在感の渡辺綾子。ややしゃがれ気味で、場合によっては耳に触る発声ながら、にもかかわらず当然のように身体性豊かな山下残。ただ、特徴的なこの2名に比べると、伊奈昌宏と諸江翔大朗はそれぞれ体格こそ異なるが、お互いに声質や口調がやや似かよっている。もしかすると、セリフを語る演者は、社会を成立させる最小単位、つまり3人だけでも良かったかもしれない。その場合の3人目は、4人の中では最もオーソドックスな諸江だろうか。音楽性豊かな伊奈は、仮にアクティングエリアを回遊したとしても無声を維持し、得意のドラムに専念することで、世界における何らかの層か、むしろ人知を超えた何らかの存在を表象させる方法もありえたかもしれない。

さて、この公演をもって、河井率いるルサンチカに対する演フェス「U30支援プログラム」は完了する。かつて彼らが大学演劇招待公演で演フェスに初登場した際、京都府立文化芸術会館ホールの緞帳と同じ大きさの吊り物で視覚的に圧倒し、観客の度肝を抜いた。「U30」の3年間も、そのような視覚的インパクトの類は保持していたように思える。『PIPE DREAM』では河井自身がロープでハラハラの宙づりになり、『SO LONG』では無数のバナナをやはり中空に吊るし、今回の『WAR』では普段見慣れないホールの無人客席空間を観客の脳裏に焼きつけた。その一方、同じ3作品では、劇世界を特徴づける聴覚刺激も印象的だった。『DREAM』の場合、河井が宙づりから舞台上に降り立つ際に生まれた「トサッ」という着地音が、今でも耳に残っている。『SO LONG』では、バナナを真空に密閉するパック器の機械音。そして今回は、前述のドラムの乱打である。はたして、今後のルサンチカはどのような新たな表現を獲得していくのか。どのような方向に創造力を高めていくのだろうか。より多様な観客層に訴求する、より総合的な独自の表現形態の開拓を、今回の支援に携わった一人として期待したい。

 

 

村川拓也 氏

(演出家/映像作家)

劇場に入ると舞台と客席が反転していました。通常の客席にはオブジェのようなものがたくさんあり、今回の客席は舞台上にありました。驚きました。舞台と客席が逆になっている作品はこれまでもいくつか観てきけど、やっぱりこういう設えにいつも驚いてしまいます。舞台上に作られた客席に座ってまず思うのは、その客席から見えるのは通常の客席で、そんな見慣れているはずの客席をまじまじと観ることはおもいしろいなあと思います。

加えて、劇場というのは舞台上が中心なので、いろいろな機材、例えば照明機材なんかは舞台上に向けて設置されています。だから客席からは椅子や通路だけではなく、こちらに向かって、いまにも照明をあてようとする照明機材の多さも目に入ります。照明機材というのはちょうど人間の目のようになっていて、いくつもの機械の目がこちらをにらみ続けている感じになります。その大量の照明の視線。なにも要求はしないけど、にらみつづけることを止めない完全に威圧的な照明機材の量。通常客席を俯瞰して、私はあそこにいたかもしれないだとか、不在の観客に観られているだとか、そのようなことをこの作品やこういった構造の中では、思わないといけないのかもしれませんが、そういうことはまったく気にならず、何が気になるかというと、それはその照明機材らの威圧的な視線そのものでした。じっとこちらをにらみつづける照明機材は、客席に座った観客たちを、「お前はほんまは何がしたいねん」、と問いただす『ナインソウルズ』の千原ジュニアの台詞のようでした。

劇が始まると、観客たちがさっき入ってきた劇場の扉から、俳優が登場し、あたかも、私も観客席にいるあなたたちと同じ人ですよという感じで、扉から見える外の風景の光が逆光になってシルエットになった俳優の影が言葉を発しはじめます。語られていることはあまり掴めませんでしたが、ただ、あそこはさっき自分たちが入ってきた入口の扉であり、まだ、入口から少しだけ見える外の風景が生きている。劇場の前は道路で、道路の脇に木が生えていて、天気も良く、横切っていく車と、木と、木の葉っぱと、天気の良い気持いい外の外気が感じられていて、ではこっちはというと無機質な照明機材ににらまれ、身動きもできない拘束状態なので、その平和な日常の匂いとこちらの拘束状態の間でこの演劇の最初の台詞が発せられたということになりました。

頭によぎったのは、ずっとこのままでやってほしいということでした。扉の前に立ち、外の空気と光によってシルエットになった人をしばらく観ていたかった。しかし、そんな願いは数十秒後に打ち砕かれ、入口の扉は閉められ、劇場は密閉状態となりました。

それ以降のことはあまり憶えていません。密閉状態となった劇場で客席から見えるのはやはり、じっとこちらを見続ける照明機材であり、劇場のオペレーター室と呼ばれる部屋の、カーテンが閉められた部屋の窓でした。最初に、舞台上から観る劇場というのはおもしろいと書きましたが、照明機材の他にもたくさんおもしろい物が見えます。舞台の専門的な用語を自分がほとんど知らないので、どれがおもしろかったかと言うのは難しいのですが、想像してみて下さい。あなたがいま客席ではなくて、舞台上にいて、そこから見える景色を。裏側が見えます。よく劇場のバックヤードツアーっていう催しを劇場はやりますけれど、やっぱり裏側というのは単純におもしろいものです。いろんな機材とか、幕とか、備品とか、そういったごちゃごちゃした物がよく見えます。普段は見せるべきものではない物たちが見えてしまうのです。一番おもしろかったのは、天井からだらしなくぶら下がっているガムテープかなにかのひらひらとした物体でした。おそらく長年使われている劇場だと思うので、いろんなところに経年の汚れや、破損部分があって、応急処置的に劇場スタッフが貼ったものなのでしょう。しかし、それが応急処置な為に、だんだんと粘着力が弱くなり、はがれて垂れ下がっているのでしょう。そんなものは普通は見れなくて、やっぱり舞台と客席を逆にすることによって、そういう裏側というものが見えたんだと思います。裏側というのはどんな環境でもやっぱりおもしろいものです。

自分は若い時に高齢者向けのお弁当の配達のアルバイトをやっていました。バイクで運ぶやつです。京都市内の左京区が中心の配達業務でしたが、左京区というのは結構お金持ちが多くて、ぼろぼろの家にも配達することはあるのですが、金持ちの家に配達することもよくあって、だいたい大きくて立派な金持ちの家に行くと、その家の大きさや立派さに相反して、ぼろぼろの老人がたった一人で暮らしていたりします。家のなかは、信じられないくらい散らかって、汚れていて、悪臭がすることだってよくありました。お金があって立派な大きな家を建てられるような家族はぞんぶんにこの世の幸せを謳歌しているものだと思いがちですが、じつはそうではありません。だいたいそういうもんです。どんな環境であれ、表は綺麗に見えるけど、裏側というのは汚いものです。

「お前ら全員地獄行きや」という台詞をとつぜん山下残が発しました。その台詞がすごく印象に残りました。土足で観客の心の中に入り込むような台詞だと思いました。人によっては失礼だなあと思う人もいるかもしれませんが、自分にはそれが良くて、土足で山下残は観客席に入り込んで唾を飛ばし、飛沫が観客の身体に付着したような感じがしました。そのあと、山下残は、ドラムのリズムに乗せて、現代の若者風の台詞を、グラムロック歌手のように、起立するマイクスタンドに身体をすり寄せ、上下運動させながら、歌います(実際には歌っていません。でも歌っているように見えました)。しかしそこにはデヴィッドヨハンセンのようなケバケバしくも威風堂々とした自信は感じられず、自暴自棄で無気力な申し訳なさみたいなものの匂いが漂っていました。大変おもしろくて、ダイレクトに台詞が聞こえてきました。

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